文字の寄せ集め

つれづれなるままに、日ぐらしパソコンに向かいてカタカタ

川と廃駅と桜

家からそう遠くない公園に桜を見に行った。ちょっとした名所のようだ。住宅街の中を流れる小川に沿って数種類の桜の木が植わっている。どれがどれだかはわからない。

川沿いの桜は綺麗なものだと思う。水の流れの清らかさと桜色の華やかさが一緒に楽しめる。また、桜の木が何本も連なっているので、見る角度によっては手前の木とその奥の木、そのまた奥の木と枝や花が重なって見え、桜色の密度がぐっと高くなる。

桜の花に目を奪われる一方で、葉や新芽にも同じくらい見入ってしまう。まだ柔らかでこれから成長せんと顔を輝かせている葉や新芽が何とも可愛らしい。

すでに何年も生きてきた幹や枝も、かつては新芽だった訳である。逆に今の新芽が将来大きな枝になる可能性もある。今の枝は昔の新芽で、今の新芽は未来の枝。そう考えると一本の樹に過去と現在と未来が同居しているように感じ、時間の概念が揺さぶられるような不思議な感覚に陥る。

帰り道、もう一ヶ所寄ることにした。今度は知る人ぞ知るお花見スポットだ。廃駅の線路沿いに桜が咲いていて、川沿いの桜と同じ原理で綺麗だった。

廃駅、いわば死んだ駅に生命力溢れる桜が咲き誇っている。生と死のコントラストに心惹かれた。

雨の日のあの匂い

雨が降った時の土っぽい匂いを petrichor というらしい。あの匂いに名前があるなんてと、初めて知った時にはいたく驚いたものだ。こんな単語、学校でも習わない。私の周りにこんなのを知っている人はいない。大学で4年間英語を学んだ者でなければ到達しえない語彙の極致に、ついに私も至ったのだ——完全に有頂天だった。数年後、米津玄師さんの曲で petrichor という言葉は人々の知るところとなった。みなさん、ようこそ極致へ。

 

日本語は雨に関する表現が豊富だというのは少し有名な話だ。春雨や氷雨、篠突く雨、狐の嫁入りなんていうのもある。降る雨ごとに細かな差異を見出して、何かにたとえたり季節に合わせた名前で呼んだりする。風流っていうやつだろうか。日本語のそういうところ好きです。

 

『翻訳できない世界のことば』(エラ・フランシス・サンダース著、前田まゆみ訳)という本で、世界には実にマニアックな単語が存在していると知った。いくつか例を挙げる。

  • commuovere (涙ぐむような物語にふれたとき、感動して、胸が熱くなる/イタリア語)
  • ikutsuarpok(だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること/イヌイット語)
  • hiraeth(帰ることができない場所への郷愁と裏切りの気持ち/ウェールズ語

 

ためしに手元の『伊和中辞典第2版(小学館)』(電子辞書)で commuovere を引いてみたところ、「感動させる、心を動かす」くらいの意味しか出てこなかった。きっと本当は上に書いたような意味があるのだろうが、日本語に変換する際に翻訳しきれなくて削ぎ落とされてしまう部分があるのだ。送電ロスならぬ翻訳ロスとでも呼ぼうか。

 

わざわざ名前を付けたということは、その現象がそこの人たちにとって身近なものであったり、大切なものであったりと、何かしらの意味を持っていたというわけだ。イタリア人はよく感動していたのかもしれない。していそうだ。イヌイットの人たちは誰かに会うのを待ち望んでいて、ウェールズの人たちは祖国を忘れられなかったんだろう。

 

翻訳できないということは、その概念を端的に、そして十分に言い表す言葉が、他の言語には存在しないということだ。その言語にしかない言葉、その言語にしか生まれなかった言葉、いうなればアイデンティティだろうか。こういう「翻訳できないことば」にこそ、その民族の心や辿ってきた歴史が詰まっているような気がする。自分たちの歴史を言葉で記録するだけではなく、言葉そのものの中にも記録しているのだ。

 

地球上には、現在に限っても数千の言語があり、それぞれの言葉を使っている人たちがいる。それは自分たちとは違う道筋を辿ってきた人たちがいるということであり、この星にいくつもの歴史が流れてきたということでもある。言葉について考えていると世界の広さと時間の長さを感じる。

 

この広い世界と長い時間のなかで、そこにしか生まれなかった言葉、「翻訳できないことば」こそ、語彙の極致なのかもしれない。
ちなみに『翻訳できない世界のことば』には「積ん読」も載っていた。そう、これもまた極致だ。

風が吹いたから負けました

テレビを見ていたら伊達政宗の話をしていた。戦国武将ですね。日本史に詳しくない私でもなんとなく知っている。かっこいい人みたいな意味の「伊達者」は、元々「だて者」と書いていたが、伊達政宗にちなんで「伊達者」と書くようになったとのことだった。ああ、その話なら聞いたことある。

 

その伊達政宗が活躍した戦いで、摺上原の戦いというのがあるそうな。相手は蘆名義広軍。初めは伊達軍が不利だった。理由は風下にいたから。しかし政宗は形勢逆転を果たし、見事勝利を収める。理由は風向きが変わって追い風になったから。

 

え、風が吹いたから勝ったの? 逆に言えば相手は風が吹いたから負けたの? 「なんで負けたんだ!」って言われたら「風が吹いたから負けました」って答えるの? そうなの?

 

風。そんな単純な自然現象が勝敗を左右するなんてと驚いたが、考えてみれば確かにそうだ。戦国時代ということは弓矢を使っていたことでしょう。向かい風でこちらの矢が飛ばず、相手からは勢いに乗った矢がビシビシ飛んでくる。鉄砲も影響を受ける。野原を数万人で駆け回ったら砂煙もすごいわけで、それが全部こっちに吹いてくる。笑ってる場合じゃなかったな。すいません。もちろん他にも様々な要因があったのだが、風向きの存在は私の想像をはるかに超えて大きかったということだ。

 

この時代に現代の天気予報があれば、戦は随分変わったのだろうな。「明日の天気。摺上原は朝は雨、昼より晴れ。八つより北から強い風」と聞けば、「天気が悪うございます。戦は午後からにいたしましょう」とか、「毛利のやつ、この天気ならば北から攻めて来るやもしれんぞ」とか、そういうふうに。一大ビジネスの予感である。

 

そういえば、摺上原といい関ケ原といい、みんな野原で戦いますね。それは西洋でも同じだったようで、「開けた土地」を表すラテン語 campāniam が、やがて「戦場」、「戦い」へと意味を転じていき、「社会的・政治的運動」の campaign(キャンペーン)になったそうである。

終わりに向かっている

一年の中で冬が一番好き。騒がしいのが苦手なので物静かな雰囲気の冬が過ごしやすい。また、冷え切った空気はなんだか清潔で無菌状態にでもなった気がして、そこもよい。実際にはインフルエンザが流行るくらいなので、無菌でも何でもないんですけどね。

 

冬について考えていると「終わり」というイメージに辿り着く。一年の終わりの季節、というだけではない。陽射しが少なく、空はどうにも薄ぼんやりとしている。草木は枯れ、虫は姿を消し、動物も冬眠する。人の活動も夏に比べれば勢いを弱める。停滞、消失、あるいは死。冬は「終わり」の季節。その暗い印象がたまらなく好きで、冬が近付くと心が躍る。私が好む終わりは基本的に暴力や破壊によるものではなく、静かに安らかに訪れ、やがて全てを飲み込むものなのだ。

 

さらに言えば、あからさまな終わりよりも、終わりを予感させるものの方がより好みに合っている。「ああ、ヒロインが死んでしまった」というよりも、「きっとヒロインはこの後命を落とすんだろうな」だとか「この二人はもう二度と会えないんだろうな」という話。別れの話も好き。

 

いくら結末を覆したくとも終わりへの一本道を進むしかない、という状況がいい。突き詰めると、「終わりに向かっている」という状況が私の心にぴったりはまるようだ。そういう作品や物語に出会うとこの上なく嬉しくなって、その出会いに感謝する。最近だと、ラジオで聴いた「キリストのヨルカに召された少年」というドストエフスキーの短編がそうだった。貧しくて誰の助けも得られない子どもが、美しいものを見て幸せな気持ちになりながら、人知れず天に召される。マッチ売りの少女と同じような話だ。青空文庫で読める。
フョードル・ドストエフスキー 神西清訳 キリストのヨルカに召された少年

 

はっきり断っておきますが、私は現実世界で誰かが苦しんでいるのを楽しむことはありません。連日児童虐待のニュースを聞いては耐えがたい気持ちでいます。
しかしその一方で、物語の中の悲運にはどうにも心満たされてしまう。どうあっても逃れられない運命に抗う姿もいいし、為す術なく諦めて終わりに向かっていく様もいい。1年くらい前に読んだ三秋縋さんの『恋する寄生虫』は作品全体に漂う停滞ムードと結末に愉悦を感じた。この人の話の結末は、遣る瀬無い気持ちになるものばかりだ。

 

悲劇は古代ギリシアに成立したらしい。2,500年ほど前から人々は悲運を悦楽のひとつに数えていたということか。

 

悲劇は娯楽の一形態である。私が思うに、劇中の悲運は全て、観衆聴衆に悦楽を提供するための舞台装置であり、登場人物はその装置を起動させることが存在意義なのだ。自由意志を持たないフィクションの世界の住人たちは、それがどんなものであれ、結末に向かうことが存在の全てなのだ。ならばその結末から目を背けてしまえばその存在は無意味に終わるというもの。死も別離も絶望も、いかなる終わりをも見届け、心に湧いたどんな感情も存分に堪能することこそが、作中の人物への手向けとなるのだろう。

 

そんなことを考えながら日々過ごしている。次はどんな愉悦に出会えるだろうか。

冬の遊園地

遊園地に行ってきた。期間限定の催し物が目当てだったが、いざ行ってみればどのアトラクションも面白そうで、昼過ぎから閉園時間までたっぷり楽しむことができた。さすがアトラクション、原義が「引き付けるもの(at- その方向へ + tract 引き寄せる + -tion 名詞語尾)」なだけある。

 

入り口を抜けると噴水の広場になっており、そこでマスコットキャラクターの猫や鳥が迎え入れてくれた。どこにでもいそうなデザインだが、この遊園地のキャラクターなので当然ここでしか出会えない。名称不明の猫さんや鳥さんたちは、かけがえのない存在なのだ。

 

お恥ずかしい話、少し前まで私は地方の遊園地のオリジナルキャラクターを下に見るきらいがあった。「どうせミッ◯ーやプ◯さんには敵わないよ」と。別にディ◯ニーファンでもないくせに。
しかし今回鳥さんたちを見て考えた。この鳥さんがこの広場に立つまでに、一体どれだけの人の力があったのだろうか——遊園地を設計した人、建設した人、運営している人、遊園地のテーマに合わせて鳥さんの衣装をデザインした人、遊園地スタッフの人、そして時間とお金を使ってやって来た来園者。他にももっといるはずだ。

 

数多の人々の努力の上に鳥さんが立っていることに私はようやく気が付いた。そんな私の心の内も知らないで、鳥さんは陽気なステップで園内にいざなってくれた。少し心がチクっとしたので、その分笑顔でお礼を言った。

 

感謝すべきは鳥さんだけではない。寒空の下頑張ってくれたスタッフの方々や、一緒に行ってくれた人。それから猫さんもいたよね。そういう人々のおかげで楽しい時間を過ごせたことを忘れないでおきたい。冬の遊園地は寒かったけど、暖かい気持ちになった。

言語について

同性で同年代の人たちとは、私はことごとく趣味が合わない。興味関心の方向性が違うらしい。同級生たちが歳相応の遊びを覚えていく一方で、私の心は言語に向かい続けていた。小学校の終わりにイタリア語に惹かれ、中学から独学で勉強を始めた。高校では英語に力を入れ、大学は英米学科に進学。現在は英語にまつわる職に就いている。

 

外国語、とりわけヨーロッパの言葉が好きなようで、アルファベットの並びを見ると無性にワクワクしてくる。そして読みたくなる。英語はまあ読めるし、とても簡単なイタリア語なら読めなくもない。英語とイタリア語を応用すれば、フランス語も単語の意味くらいは解る。こともある。イタリア語とフランス語は、同じラテン語から生まれたきょうだいなのだ。
余談ですが、英語の語彙は、その6割がフランス語およびその元となったラテン語由来なのだそうな。英語本来の語彙は全体の4分の1しかないということで*1、それを知ってから英語辞典を英語辞典と呼ぶのを少しためらう。

 

単語を眺めていると不思議な気持ちになってくる。アルファベット一文字一文字では何の意味も持たないはずなのに、それが集まった途端に意味を成すのは何故だろう。'c'と'a'と't'が並んでいると「ああ、猫だな」と感じるのはどうしてだろう。

 

小さい子どもの頃はアルファベットの言葉は全て同じに見えたものだった。映画のタイトルや絵本の挿絵などで見たアルファベットも、「日本語とはぜんぜん違うなぁ。知らない国の言葉だなぁ」くらいにしか感じなかった。しかしそんないい加減な認識の一方で、「こんな言葉を使っている人たちが世界のどこかにいるんだ」と、世界の広さを感じ取ってもいた。「日本語ではない何か」が、絵本の中のメルヘンチックな世界と相まって、「ここではない何処か」に通ずる鍵のように感じられたのだった。

 

「ここではない何処か」
実に魅力的な響きだと思う。もしかすると私は、ここではない何処か、メルヘンの世界への憧れを忘れられなくて言語に触れ続けているのかもしれない。

「文字の寄せ集め」

はじめまして。
当ブログにお越しくださり、ありがとうございます。
「文字の寄せ集め」を管理している者です。
管理しているというよりは、まだ最初の記事を書いている最中なので、厳密には「これから先『文字の寄せ集め』を管理しようと試みている者」になるのでしょうか。

 

なんだか文章を作成したいという欲求に駆られたのでブログを始めることにしました。気の向くままに文字を寄せ集めて、取り留めもなく文を残していこうと思います。

 

よろしくお願いします。