文字の寄せ集め

つれづれなるままに、日ぐらしパソコンに向かいてカタカタ

終わりに向かっている

一年の中で冬が一番好き。騒がしいのが苦手なので物静かな雰囲気の冬が過ごしやすい。また、冷え切った空気はなんだか清潔で無菌状態にでもなった気がして、そこもよい。実際にはインフルエンザが流行るくらいなので、無菌でも何でもないんですけどね。

 

冬について考えていると「終わり」というイメージに辿り着く。一年の終わりの季節、というだけではない。陽射しが少なく、空はどうにも薄ぼんやりとしている。草木は枯れ、虫は姿を消し、動物も冬眠する。人の活動も夏に比べれば勢いを弱める。停滞、消失、あるいは死。冬は「終わり」の季節。その暗い印象がたまらなく好きで、冬が近付くと心が躍る。私が好む終わりは基本的に暴力や破壊によるものではなく、静かに安らかに訪れ、やがて全てを飲み込むものなのだ。

 

さらに言えば、あからさまな終わりよりも、終わりを予感させるものの方がより好みに合っている。「ああ、ヒロインが死んでしまった」というよりも、「きっとヒロインはこの後命を落とすんだろうな」だとか「この二人はもう二度と会えないんだろうな」という話。別れの話も好き。

 

いくら結末を覆したくとも終わりへの一本道を進むしかない、という状況がいい。突き詰めると、「終わりに向かっている」という状況が私の心にぴったりはまるようだ。そういう作品や物語に出会うとこの上なく嬉しくなって、その出会いに感謝する。最近だと、ラジオで聴いた「キリストのヨルカに召された少年」というドストエフスキーの短編がそうだった。貧しくて誰の助けも得られない子どもが、美しいものを見て幸せな気持ちになりながら、人知れず天に召される。マッチ売りの少女と同じような話だ。青空文庫で読める。
フョードル・ドストエフスキー 神西清訳 キリストのヨルカに召された少年

 

はっきり断っておきますが、私は現実世界で誰かが苦しんでいるのを楽しむことはありません。連日児童虐待のニュースを聞いては耐えがたい気持ちでいます。
しかしその一方で、物語の中の悲運にはどうにも心満たされてしまう。どうあっても逃れられない運命に抗う姿もいいし、為す術なく諦めて終わりに向かっていく様もいい。1年くらい前に読んだ三秋縋さんの『恋する寄生虫』は作品全体に漂う停滞ムードと結末に愉悦を感じた。この人の話の結末は、遣る瀬無い気持ちになるものばかりだ。

 

悲劇は古代ギリシアに成立したらしい。2,500年ほど前から人々は悲運を悦楽のひとつに数えていたということか。

 

悲劇は娯楽の一形態である。私が思うに、劇中の悲運は全て、観衆聴衆に悦楽を提供するための舞台装置であり、登場人物はその装置を起動させることが存在意義なのだ。自由意志を持たないフィクションの世界の住人たちは、それがどんなものであれ、結末に向かうことが存在の全てなのだ。ならばその結末から目を背けてしまえばその存在は無意味に終わるというもの。死も別離も絶望も、いかなる終わりをも見届け、心に湧いたどんな感情も存分に堪能することこそが、作中の人物への手向けとなるのだろう。

 

そんなことを考えながら日々過ごしている。次はどんな愉悦に出会えるだろうか。